2019年復旦大学外文学院卒業式の院長スピーチ(日本語訳)

【前置き】

しゃをみんの母校である上海復旦大学は、「博学而篤志,切問而近思」を公式な校訓としていますが、非公式な校訓として「自由而無用」という、人の精神のあり方を説いた言葉が伝わっています。このスローガンの出処は、1999年に校内のネット掲示板の書き込みの一節だと言われています。

もしもある日、しばらく歩いているうちにいきなり歌い出すような変人を見かけたら、その人はきっと復旦の人間だろう。このような自由かつ無用な魂を育てることができるのは復旦しかいない。

この「自由」と「無用」の組み合わせは結構色んな解釈の余地があって、僕自身もわりと気に入っている言葉です。

そして外文学院の院長である曲衛国先生も例年の学院卒業式スピーチの定番ネタとして、毎年その意味について検討してきたようです。僕は特に知らなかったのですが、今年の卒業式のスピーチにはぐっと来るものがあったので、勢いに任せて日本語にして共有してみたいと思います。

良いですよね、大学式典のスピーチって。

原文の参照元:

https://mp.weixin.qq.com/s/u7VOSHZEfZxG-VYTag6CCQ

自分は人文系の知識がほぼゼロなので、翻訳する過程で不正確な部分があるかもしれません。見つけたら教えてください。

【発言者】

曲衛国

上海復旦大学外文学院教授

【スピーチ全文】

学生の皆さん、保護者の皆さん、先生の皆さん、

こんにちは。

まずは例年通り、復旦外文学院を代表して皆さんに熱烈なお祝いをさせてください。毎年卒業式で繰り返している話ですが、私は外文学院の教師を代表して、最初から、あるいは途中から復旦に加入することを選び、外文学院で自らの学業を完成してくれたことに、心から感謝を申し上げます。君たちの選択があってこそ、外文学院はさらなる発展を持続できるのです。

ここ数年の卒業式では、私は復旦の非公式な民間校訓「自由而無用」を毎回しつこく言及してきました。残念ながら、これまでの発言を読み返して、私は年を重ねるごとに気持ちが重くなっています。2017年は主に「無用」、non-instrumentalについて語りました。2018年は「自由」についてよく考える必要があることに気づきます。自由というと、皆自分の自由権利にばかり関心が行きそうな気がしたからです。

去年、私は「自由」を解釈するときに強調したのは、我々が守らなきゃいけないのは我々自身の自由の権利だけではなく、更に他人の同様な自由権利も守らなければならない、ということでした。他人の自由権利が蹂躙されれば、我々の自由も実質的に名ばかりのものになってしまうからです。これが“freedom from imposition”ですね。

今年はこんな話をしたくなかったのですが、先日卒論の口頭試問に参加したり、ネットの色んな議論をみたり、もちろん劉欣がFOXのインタビューを受けた(訳注:中国国際テレビ局(CGTN)のキャスター劉欣氏が、米テレビ局FOXのトリッシュ・レーガン氏と、ファーウェイや貿易問題について公開ディベートを行った話)こともあって、私はふと、やはり改めて「我々自身の自由」について語る必要があるかもしれない、と思い至りました。つまり“freedom of”の話で、自由は結局個人の独立意志や思想の体現にほかならない、という話です。今現在、あまりの多くの集団が(よからぬ風潮に)縛られてしまってます。多くの場合、”freedom of”のあとに付く名詞がいつのまに複数形にすり替わってしまっていることに、我々は全く気づけていないのです。

何日か前に、卒論の口頭試問に参加したのですが、ある学生が論文で東西文化の差異について触れていました。Markus、Kitayama、Matsumotoといった学者の理論で東西文化差異を語り、東方人はcollectivists、西方人はindividualistsだとか。

もちろんHofstede、Triandisのような偉い学者もこのような考え方の持ち主です。私の研究分野は異文化間交流を含むので、このような仮説をほとんど疑いなく受け入れてきた時期がありました。しかし研究が深くなり、現実の形勢が発展するにつれ、現実は理論よりも複雑であることに気づきます。たとえば日本人と中国人のcollectivismは大きく違う。私は明治大学で講師を務めていた一ヶ月間、日本の学者とこの問題について討論しました。

ここ数年、私は文化差異の仮説に反感を覚え始めています。まず、この仮説は異なる文化を尊重しているように見えて、実際には人類文明のとある特徴や成果を、すべて特定の文化の名の下に収めてしまっている。開放的な討論に見えて、実際はdiscussions of denialで、これは人類資源を共有する正当な権利の剥奪でしかありません。

また、文化差異の討論は表向き形而上的な思考ですが、実際は形而下的な打算のほうが大きい。みんなはっきり言わないのですが、いわゆる文化というものは実際は人種を指しており、そして人種の認定は基本的に生物学的なものです。

もしも我々がこのような文化差異の仮説を受け入れてしまうと、その中に暗に含まれている、「我々の生理的な構造が、我々の文化特性を決定している。」という悲観的な宿命論に同意せざるを得なくなります。一部の人種は自力で今のような発展を遂げることは不可能だ(という結論に行き着きかねません)。これは完全に歴史発展の現実を無視した結論です。

最低限の歴史常識があればわかることですが、どの人種も、いかなる発展も(異文化の)相互作用によるものです。相互作用の結果がhybridityです。文化間の相互作用や発展は暴力を伴うことが多い。なぜなら相互作用の結果は多くの場合「変化」であり、変化される側の統治者は基本的にそれを望まないからです。

私が英語通論の講義でも簡単に触れたことがあるのですが、ノルマン人の征服は英国の言語文化の発展軌道を徹底的に変えました。古代英語と比べるとわかるように、ノルマン人のフランス語はほとんど英語と英語文化を再構築してしまったと言えます。Norman Conquestが無ければ、今日のような英語文明は存在し得たでしょうか?

面白いことに、生物学的な境界をもって人種の「純粋さ」を守ろうとすることに執着するポピュリストたちは、生物学の簡単な原理すらも忘れてしまっています:近親繁殖は種族の退化につながる。鎖国をして文化を発展させた結果も同じではありませんか?文化がここまで発展した今日で、実際のところ「純粋さ」を見つけることすら困難になっています。

あの口頭試問のときに、私はあの学生に意地悪な質問をぶつけました:君は両親と考え方が大きく異なるし、物事を見る視点も違う。両親と祖父母も同じく差異があるでしょう。ではどっちがより東方で、どっちがより西方ですか?と。

私が文化差異論を反感しているもう一つの理由は、学者の善意に基づく討論が、よからぬ意図を持った人に利用され、非合理的なやり方の存在根拠にされることがとても多いからです。

少し頭で考えれば気づくことです。もし我々が本心で唯物主義の基本原理を認めていて、「経済基礎が上層の建築を決定する」と考えるならば、数千年前の思想や、百年前の思想が今日の社会に通用すると思えるはずが無いでしょう?大勢の人が口を揃えて「うちの国スゲー!」(“厉害了我的国”)と唱えるんですが、我々が本当にスゲーのであれば、なぜ数千年前の、WeChatも無い孔子に我々の今日の行動を指導させる必要があるのでしょう?

よからぬ意図の持ち主が、文化差異論の基本前提を改竄するのはちゃんと目的があります。彼らの企みは、文化間の対抗をもって自身の文化内部の矛盾や衝突を隠し、他文化の強権に反抗することで自身の強権を隠すこと。もしも本当に強権に反抗し、独立を尊重するならば、文化間の圧迫も、文化内部の圧迫も、一律して滅ぼさなければなりません。

私のこのお説教と、復旦の「自由而無用」の校訓とはどんな関係があるのか?私が伝えたいのは、たとえ研究や勉強のときであっても、我々の思想は往々にして我々が思うほどに自由ではない、ということです。繁雑な思想風潮の影響、恥知らずで強力な圧迫や様々な利益の誘惑に挟まれながら、自らの思想の自由を守りきることは非常に困難になっているのです。

我々は読書が自らを強くすると信じています。しかし読書をする過程で、我々の独立意志や思想の自由は、知らぬうちに縛られてゆくことが多い。みんな読書はいい事だと思っているのでしょうが、読書のときに独立意志が機能しなくなり、自由な思想が失われてしまえば、読書しないよりも悪い結果になるかもしれません。ショーペンハウアーはOn reading and booksという本の中でこう言いました:多くの人は必死に本を読んだ結果、皆バカになってしまった(they have read themselves stupid.)。君たちは皆知に飢えている学生ですし、これを知っておくことはとても大事です。

ショーペンハウアーの分析によると、我々は読書をするときは独立的に思考していると思い込んでいるが、実際は多くの時間は他人が自分に替わって思考し、自分はその思考プロセスを繰り返しているだけだという(When we read, another person think for us: we merely repeat his mental process)。ショーペンハウアーの読書に関する分析の中で、最も見事で、最も有名な言葉は、「読書をするときは、我々の思想は誰か他人の思想のアリーナでしかない(But, in reading, our head is, really only the arena of someone else’s thoughts.)。

この言葉を覚えておいてほしいと、私は真摯に願っています。どうすればこのような悲劇を防げるのか?復旦人はやはり復旦の民間校訓を覚えておくべきです。自由の前提は無用であることです。2017年に「無用」について語ったとき、私はこう解説しました:復旦大学の「無用」は荘子の思想から来たものではない。彼が言うように、自身は使いどころのないな樗(訳注:材木として使えない木)となり、「斤斧に夭られもせず、物の害するもなし。用うるべき所なきも、安ぞ困り苦しむ所のあらんや(『荘子・逍遥遊編』)」という意味ではなくて、カントが拘っていた「人は道具でなくそれ自身の目的である」という意味である。

読書のときに「自由而無用」を保つことは、我々が本を読むのは、他人が規定した目的に用いられるためでなく、自身の独立した生命体験のためであることを意味します。読書は他人が出した答えを見つけるためではなく、自分がより大きな思想の自由を得るためなのです。

特定のタイプの本のみを読み、一つの権威にのみ忠実である人は、本をレンガにして自分の思想を閉じ込める牢屋を建てているに過ぎません。我々の祖先が本をレンガのような形に設計したのも、ひょっとしたらこのような意味も込められているかもしれませんね。

ここまで書いて、私はふと潘光旦先生(訳注:中国の社会学者)を思い出します。潘光旦は非常に有名な言葉を残していて、これは復旦校訓の一つである「自由而無用」に対する絶妙な注釈だと思います。「自由な教育の下で育った自己は自己でしか無い。自己は自己のものであって、家族の、階級の、国家の、種族の、宗教の、党派の、職業のものではない。」これは本当に我々一人ひとりが覚えておくべきことでしょう。我々は良き人間になるために学んでいるのです。

残念ながら、みなさんは費孝通(訳注:中国の社会学者。晩年は中国の社会政策に結構コミットしたので有名)を知っていますが、たぶん費孝通が「先生」と仰いだ、古今東西を知り尽くし、群を抜いた学術界泰斗である潘光旦先生はあまり知られていないかもしれません。ダートマス大学で学部卒、コロンビア大学で院生だった彼は、今日いまだに評価の逆転を企む人がいるあの大厄災(訳注:文化大革命)で、紅衛兵学生の野蛮で、残酷な虐待を受けました。この紅衛兵は皆君達と同じくらいの年齢で、中には博学な優等生も少なくありませんでした。

悲しいことに、独立意志を失った紅衛兵学生は他人に利用された挙句、博学で聡明な彼らは傷害・破壊・強奪といった罪悪の実行者に堕落してしまいました。潘光旦に言及するたびに私は感情が高ぶってしまいます。七十にもなる潘光旦、中国学術界の泰斗が、紅衛兵の脅迫に押されて、壊れた体を引きずりながら、清華大学、我が国の最も著名な高等学府で、動物のように這い蹲りながら、除草の労働を行っていたのです。

1967年、病状が重くなったとき、紅衛兵はなんと病院での診査すら許さず、痛み止めも与えませんでした。あの年、彼は耐え難い痛みの中、sから始まる4つの英単語で悲壮な遺言を残します:surrender(投降)、submit(屈服)、survive(生存)、succumb(滅亡)。同じ年、費孝通は空を仰ぎ、「日夕傍伺、無力拯援、凄風惨雨、徒呼奈何」と嘆き、先生の息が止まるまでずっと彼を抱えていました。

「自由而無用」はいかに重要で、またいかに脆弱であることがわかるでしょう。それは我々が自身の生命体験を追求することを促すだけではなく、我々が犯罪の道具に堕落することを防いでくれるものです。それは良心の最初の、あるいは最後の防衛線です。実際唯一の防衛線と言えるでしょう。

その防衛線を守りきることは可能なのでしょうか?我々はたぶん潘光旦にはなれないのでしょうが、まだ自分になることはできるはずです。今朝学校に来るときは丁度出勤ラッシュで、地下鉄の中で皆身動きができなくなっていたのですが、若者はほぼ皆スマホを取り出し、この抑圧的な空間、あるいは無空間のなかで、ネットを漫遊する自由を得ていたことを、私は意外に感じました。

これから卒業式のスピーチを行うからでしょうか、あのとき私は突然感動してしまいました。自由は施しによって獲得するものではなく、我々の意志に頼っているものなのです。「You can lock up my body but you can never imprison my will.」

ここまでとしましょう。ありがとうございます。最後に、例年通り私の人生の座右の銘を、皆さんと共有したいと思います。Edward Everett Haleの名言です:

I am only one, but still I am one. I cannot do everything, but still I can do something; And because I cannot do everything I will not refuse to do the something that I can do.

これは私が院長としての最後のスピーチになります。なんだかまだ物足りない気分になります。「任重くして道遠し」な君たちに、もう一言添えておきましょう。やはりEdward Everett Haleの言葉です。

Look up and not down.

Look forward and not back.

Look out and not in.

Lend a hand.

ありがとうございました。

(2019年6月17日、復旦大学外文学院卒業式にて)